そんな、宮澤エマさんと俳優の森崎ウィンさんとの交際を2022年12月23日に「NEWSポストセブン」が報じています。
交際相手の森崎ウィンさんは両親と共にミャンマーから日本に移住し、俳優、アイドルグループ、ハリウッドに出演などで活躍してきました。
今回は、森崎ウィンさんの両親の仕事と家族構成、ミャンマー国籍での苦労、wiki経歴について紹介していきます。
森崎ウィンの両親の仕事や家族構成は?
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森崎ウィンさんが10歳の頃、両親は家族の安全のために日本に移住します。
森崎ウィンさんは1990年生まれですが、ミャンマー(ビルマ)は全国的な民主化要求デモにより26年間続いた社会主義政権が崩壊、国軍がデモを鎮圧するなどとても不安定な環境でした。
父親は各国を巡る船の整備士、母親は移住先の東京で事務の仕事をしていました。
森崎ウィンさんの家族は4人で父親、母親、弟の4人家族です。
森崎ウィンさんの両親はミャンマー人で、森崎ウィンさんもミャンマーのヤンゴン市で生まれています。
両親が日本先に移住して働いていた間は、10歳までヤンゴン市で祖母に育てられました。
日本に移住したというのも、母方の祖父が奨学生として暮らしていたことがあり、治安に恵まれている国だと知っていたからでした。
「ミャンマーから出てきたなら、日本のどまんなかを見よという、おじいちゃんの主義だったみたいです」
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そんな祖父の想いもあり、東京都渋谷区で育つことに。
そして、母親はミャンマーの経済状況を経験しているので、多言語をあやつる大切さが身にしみていて、森崎ウィン「英語を身につけなさい」と、手製のテキストで教えたそうです。
森崎ウインはミャンマー国籍でハーフ?
ミャンマーにいた頃の森崎ウインさん
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森崎ウィンさんはハーフではないかとの噂ですが、両親ともにミャンマーの方なので生粋のミャンマー人で、、ミャンマー国籍です。
移住すると、東京の小学4根年生としての生活が始まりました。
初めての登校日は教室の前で「ウィンです、よろしくおねがいします」と挨拶した記憶があるそうです。
しかし、日本語は「ありがとう」くらいしか知らなかったので、意地悪な上級生に仲間はずれにされたり蹴られ、学校の屋上で泣いたこともあったそうです。
それでも、1年で日本語をマスターしてサッカーに夢中になると親友もできたそうです。
森崎ウィンのwiki経歴
森崎ウィンさんは、中学生の頃にスカウトされ、俳優・アイドル・ハリウッド出演と多岐にわたって活躍しています。
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本名 :ウィン・チョウ・トゥー
生年月日 :1980年8月20日
出身地 :ミャンマー、ヤンゴン市
身長 :174cm
血液型 :O型
森崎ウィンさんは中学2年の夏休に久しぶりにミャンマーに帰国します。
仏教徒の男児が修行をする習わしに参加し丸坊主にしました。
日本に戻り女の子と待ち合わせていた恵比寿のスーパー前でスカウトされましたが、母親と「詐欺かも」と話したくらい、歌手や俳優という職業を考えたこともなかったそうです。
森崎ウィンさんは18歳で深田恭子さん主演の学園ドラマ「学校じゃ教えられない!」で役柄を得ます。
街を歩いていると役名の「叶夢さーん」と声をかけられ、
「俺は売れるぜ、芸能人だぜ! ってひどかったですね、テングでした」
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と当時を振り返っています。
そんな心持なので、2011年の映画「天国からのエール」の撮影で、主演を務めた阿部寛さんに「そのセリフ、ぐっとこない」とだめ出しをされました。
さらに、「ごくせん」「闇金ウシジマくん」といった人気作にも端役で出演しましたが、なかなか芽が出ない日々が続きました。
森崎ウインのアイドルグループPrizmaX時代
森崎ウインさん中央
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森崎ウインさんの現在の活躍に至る、転機となったのが2008年からメインボーカルを務めたアイドルグループPrizmaX(後のPRIZMAX)です。
PRIZMAX(プリズマックス)は、日本の男性ダンス&ボーカルユニット。
旧名はPrizmaX。スターダストプロモーション制作1部所属。
同事務所の男性アーティスト集団EBiDANの一員である。
2002年に結成。
初期は小中学生男子で構成されるユニットとして、メンバーの増員と脱退を繰り返しながら存続してきた。
2013年3月27日に5人組としてCDデビュー。
2019年3月4日からは7人組となり、グループ名を「PrizmaX」か「PRIZMAX」に改めた。
2020年3月27日に解散した。
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それでも、順風満帆ではなく後輩に人気で追い越され、10人以上いたメンバーが脱退していき、2012年には3人になりました。
ファンが7人しか来ないステージもあったそうですが、そうやって追い込まれていくうちに、森崎ウインさんの負けず嫌いに火がつきました。
グループの売りだった英語詞の曲をメンバーと競って作り、歌やダンスの練習を重ねていきます。
当時のメンバーで親友の清水大樹さんは、
「明るくて情熱的なウィンが前のめりになって引っ張ってくれた」
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このグループでの活動によって芸能の世界で生きていく気持ちが固まったそうです。
森崎ウィンはスティーブン・スピルバーグの映画に出演
出展元:GLOBE
森崎ウィンさんは歌に演技に目の前の仕事をこなす日々を送っていましたが、ハリウッドで「日英バイリンガル」の役者を探していると聞きすぐさま応募しました。
ビデオオーディションを見事通過し、数カ月後舞台とライブの仕事を終えて、2次オーディションのため米ロサンゼルスへ向かいました。
「ウィン来てくれてありがとう」
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なんと、あの映画監督のスティーブン・スピルバーグが待っていました。
ドキドキしながら英語で自己紹介し、その後カメラの前で渡されたのは「first to the egg」と書かれた紙。
求められた通りに何度も読めといいい、「次は怒って」「悲しげに」「じゃあ日本語で言ってみて」と言われ、無我夢中で演じたそうです。
アジア系米国人や著名な俳優もオーディションに参加しましたが不合格。
森崎ウィンさんは、それでも黙々と殺陣や英会話を練習していたそうです。
そして8カ月後、映画「レディ・プレイヤー1」への出演決定の知らせが届きました。
4カ月にわたる撮影は刺激的で、主演俳優のタイ・シェリダンは6歳年下のも関わらず、
「出演者のリーダーとして分け隔てなく人と接する。自然体で、人間味にあふれていた」
出展元:GLOBE
と、森崎ウィンさんは語っていました。
2018年の公開の時の会見で、得意な英語でしたがネイティブの中ではなかなか上手に話せず手こずったといいますが、
「オレは絶対アカデミーとる!」
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と興奮して日記に書いたそうです。
まとめ
今回は、森崎ウィンさんの両親の仕事と家族構成、ミャンマー国籍での苦労、wiki経歴について紹介してきました。
ミャンマー国籍での苦労、俳優やグループでの挫折、ハリウッドでの挑戦。
これからの森崎ウィンさんの活躍に期待ですね。