日本を代表するスラッガーに成長した村上宗隆選手。
村上宗隆が若くして活躍できたのは、高校時代がターニングポイントだったようです。
村上宗隆の才能は勿論のこと、野球部の仲間と切磋琢磨し積み上げた経験が今花開いているようです。
2020年に九州学院の野球部監督を勇退した坂井宏安前監督。現在は同校の教員として野球部を外から見守っています。
村上宗隆との初対面は2014年。入学から野球部の気風を紹介していきます。
村上宗隆の高校時代の監督は誰?
村上宗隆を高校時代に育てた人はどんな方だったのでしょうか。
そして、その独特な指導方法がその後の村上宗隆の野球人生にどのように影響していったのでしょうか?
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坂井宏安元監督のwiki的プロフィール
名前:坂井宏安
生年月日:1957年5月14日
出身:熊本
出身高校:九州学院
出身大学:日大体育大学
自身も九州学院出身で、3年生の夏に甲子園に出場しています。
その後、体育大学に進学し卒業後は千葉県立銚子商業高校のコーチに就任しています。
1985年に母校の九州学院で監督となりました。
一度、野球部から離れますが、1995年に再び九州学院の監督に就任。
そして、2020年に勇退しました。
春夏10回の甲子園出場、村上宗隆をはじめプロ野球選手を指導してきた名将です。
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坂井宏安元監督の指導方法とは?
村上宗隆の本当の強さはこれから紹介するエピソードの中にあるのではないかと感じます。
九州学院に入学していなかったら、坂井宏安前監督に出会っていなかったら、
今の活躍には繋がっていなかったのではないかと考えさせられます。
出展元:高校野球ドットコム
指導方法①上下関係で実力を評価しない
入学すぐにチームの4番に座ることになりますが、監督はチームにある事を話したといいます。
「あの年は、春のセンバツにも出ていた年ですから、3年生中心のいいチームでした。そこにムネが入ってきて、3年生には『夏を勝ち抜くためには1年生のムネが必要になる。ムネがのびのびプレーできるよう、3年生が頑張らんね』と話していたんです」
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九州学院には伝統的に上下関係がないとされています。
坂井宏安前監督の方針で、「仲良し」というわけではなく、1年生でも実力があればレギュラーになれるし、3年生だからという理由ではレギュラーになれない。
村上宗隆は4番に座ったからといって天狗にならず、リーダーとして自らチームを引っ張ていく役割を担います。
指導方法②トイレ掃除も主将が率先して行う
主将だけでなく主力選手がやります。一番いやなことがやれるように。1年生は何にも分からないし、できない。2年生は1年やって分かって、3年生は2年やってるから一番すべて分かっている。そういう3年生、特に主力選手がいやがるところをやればいいんです。一番、練習やらせてもらって、ちょっと活躍すればマスコミから取り上げられて、みんなから応援してもらって、すべて楽でしょう。でも、そんなの貸借対照表で合わない。会社でもすべて新入社員にやらせても儲からない。一番分かっている社員が頑張れば会社が儲かる。それを新入社員が見て育つんです。上級生がやるのが当たり前。グラウンド整備も3年生が一番分かっているし、下手な上級生はいないはずです。
出展元:高校野球ドットコム
ひと昔前の高校野球の現場ではありえない指導方針ではないでしょうか。
今まで当たり前とされていた事でも、チームを強くするために、選手に気持ちよくプレーしてもらうために、
坂井宏安前監督の指導方針は素晴らしい選手を育てていったのではないでしょうか。
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村上宗隆の高校時代の恩師とのエピソードまとめ
村上宗隆が在籍中には恩師との様々なエピソードがありますが、印象的なものを3つご紹介します。
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エピソード①入部の知らせは第三者から聞いた
「はじめてムネを見たのは、中3の夏。それまではぜんぜん知らんかった。だから、積極的な勧誘はしてないのよ。お父さんと一緒に見学に来てね。『ウチに来るんやったら、早いところ決めて連絡ばくれんね』と言ったんです。あまり引っ張ってもいいことないからね。あとで聞いたら、ムネは駐車場でお父さんに『九学でプレーしたいけど、いいかな?』と言ったらしいんです。それはですね、ウチの野球部には授業料免除とかないですし、経済的な負担を心配したんじゃないかね。お父さんも応援してくれるってことで決まったわけです。でもね、連絡がなかったです。他に行きよるのかなあと思っていたら、九学に決めてますって、第三者から聞きました(笑)」
出展元:Number
今でこそ物怖じしないプレースタイルでホームランを量産していますが、当時はシャイな男の子だったのでしょう。というよりも、父親の経済的な負担を考えての優しさからくるものと伺えます。
坂井宏安前監督が第三者から聞いたというのは、はやりシャイだったのでしょうか?
ともあれ、結果的に才能を発揮できる野球部に入部することになります。
エピソード②初めて見た時にプロに行くと思った
そして、坂井宏安前監督曰く
「私、村上が中学の時は一度も見てないんですけど、ウチに入ってきて初めて見た時に、あ、この子はプロに行くな……って思いましたね」
出展元:Nunber
入団してきてあまりに見事なスイングに驚いてしまった様子も。
トスバッティングの際も普通の選手と違い、丁寧にトスバッティングを繰り返し、
トスバッティングのためのバッティングフォームではなく、トスバッティング中でも実践さながらの
バッティングが出来たといいます。
「低いボールも手で返すだけじゃなく、ちゃんと柔軟な膝の対応で打ち返してね。この子は上手いなぁ……と思いましたね。当時はまだ体も細くて、パワーよりボールを捉える上手さのほうが目立ってましたから。練習して、練習して、スイングスピードが上がって、インパクトも強くなって、打球が上がるようになった。最初から今みたいなホームランバッターではなかったんですよ」
出展元:Number
今の活躍だけしか知らない人は、意外だったでしょうが中学生はまだまだ成長段階で力もそんなにありません。
ホームランを打つにはパワーは勿論、ボールを捉える作業が先になり、その才能を持っているからこそ、
今では広角にホームランを打ち続けることが出来るのでしょう。
そして更に、
「でもね、ただやみくもにやるわけじゃないんです。自分のためになる……というか、これはいい練習だと思ったら、トコトンやるんですね。これをやれば自分のためになる、自分のためになれば、チームのためになる。だから練習する。練習に対して、ものすごく純粋な入り方をするんです」
出展元:Number
技術は勿論、考え方が大物になる素質十分ですね。
現在、村上宗隆の記録ばかりに注目されがちですが、その結果ヤクルトはセ・リーグで首位を走っています。
「自分のためになれば、チームのためになる」という考え方はこの頃に育まれていったのでしょう。
エピソード③高校最後の試合で最後の最後で大泣き
出展元:日刊スポーツ
高校最後の甲子園出場がかかった、熊本県大会決勝で宿敵の秀岳館に敗れ、
村上宗隆の高校野球の挑戦に幕がおりました。
その時の様子を坂井宏安前監督が語っています。
「甲子園まであと1歩、熊本の決勝で秀岳館に負けました。試合が終わって、泣いている下級生たちに、キャプテンだった村上が言ったんです。
『負けたんは、オレたち3年生がだらしなかったからたい! お前らは全員よく闘ってくれた』ってね。それで、ヤツは涙ひとつ流さずに、大喜びしてる向こうの選手たちを指差して、『あれは、来年のお前たちの姿だ。よー見とけ!』って。たいしたヤツだなぁ……と思いましたよ。
閉会式が終わって、みんなロッカーに引き上げて、ふとベンチを見に行ったら、村上が1人で座ってましてね。おい、帰るぞって声をかけたら、『坂井先生をもう一度甲子園に連れて行きたかったですー!』って、最後の最後でわーわー、もう、大号泣でしたよ……まあ、なんというか、熱いヤツでしてね、ああ見えて」
出展元:Number
九州学院に入学して、自分の成績よりもチームに貢献したい想いが伝わってきますね。
一見クールで物静かな印象を受けますが、やはり内に秘めた熱いものがあるエピソードでした。
まとめ
才能と努力とチームを大切にする想いが高校時代からも伺えます。
それを坂井宏安前監督によって引き出され、現在の活躍に繋がっているのでしょう。
坂井イズムは今だに健在で、トイレ掃除は上級生が行っているみたいです。
高校野球は指導者によって随分、チームの力が変わってくると聞きます。
九州学院からはまた新たなスターが誕生する下地が出来ているのではないでしょうか。